例えば君が僕の傍で笑ってくれるなら。
 それだけで僕の存在理由は確立するのかも。

「何よコレぇ!」
 耳に付く、けれど何故かそんなに不愉快では無いアスカの声にシンジは嫌そうに振り向いた。
 予想通り目が合えばすぐに睨み付けてくるアスカにシンジは何処か諦めた声で言う。
「何って…パスタ。アスカが食べたいって言ったんじゃん」
「あーもーやだやだっ!どうして日本人ってパスタイコールカルボナーラ、な訳ぇ!?私が食べたいのはペペロンチーノなのよ!」
 自分の言っている事は当たり前の事だと信じて疑わないこの態度は一体何だと言うのだろうか。
 はぁぁ、と溜め息を吐き、シンジは気を取り直した様に言う。
「…そんな事アスカ言わなかったじゃん。別に嫌なら食べなくて良いよ」
「別に誰も食べないだなんて言って無いじゃない!あーやだやだひがみっぽいんだからぁ」
 どか、と椅子に腰掛けていただきます!と半ばやけくそに叫びながらパスタを頬張る。
(何でアスカってこんなに我侭なんだろう…普通にしてれば可愛い、のに…)
 心の中で呟いた「可愛い」と言う自分の言葉に恥ずかしくなってついアスカから顔を背けてしまう。
 すると、すかさずアスカが問いかけた。
「? 何よ」
 アスカは他人の事なんてどうでも良いと言わんばかりの態度を取りながら、だけどいつも人の事を良く見ている。
 …少なくとも、シンジはそう思う。
 言われる本人が驚く程ちゃんと見ていてくれるのだ。もしかしたら自分の行動を一番事細かに見ていてくれるのはアスカかも知れない。
 それは、アスカの心根の優しさを表すものの一つ、なんだと思う。
「ううん、何でも無い」
「ふーん?…ミサト、遅いわねぇ」
 ぷらぷらとフォークを自分の顔の辺りで揺らしながら、ぽつりと呟く。
 その言葉で今がいつもならミサトの帰宅している時間なんだと気付く。
「あぁ…最近早かったのにね。どうしたんだろ」
 まぁ最近帰りが早かったからと言って別に遅い事が不思議な訳でも何でも無いのだけれど、いつもなら連絡をくれる筈なのだ。
 アスカが少し眉根を寄せながらむむぅと呟く。
「加持さんとデートかしら」
「え…」
 まさか、とは言えない。
 ミサトは自分からは言いたがら無いけれどアレは十中八九付き合っている。恋愛方面には疎いシンジでさえ、そう思う。
 語尾を濁しながら自分の分のカルボナーラを皿に盛ってアスカの向かい側に腰掛ける。
 何か他の話題を、と思っている内にまたアスカが口を開く。
「デートならデートで遅くなるって言えば良いのに」
 一瞬、面食らってしまった。アスカが余りにも平気そうに、当然の事の様にその言葉を紡ぐから。
 じぃっと見つめているとまたギロリと睨まれた。
「何よその顔!」
「え…えっと…」
 言って良いのか分からずに口篭ると、アスカは苛々とした態度で机をとんとん、と指で叩いた。
「何よ、さっさと言いなさいよ。気持ち悪いわね」
「アスカは…平気なの?」
 そのシンジの問いかけに綺麗な眉宇がピクリと動いたのをシンジは見逃さなかった。
 それでも次の瞬間にはいつものアスカがそこに居る。
「何がよ?」
「だから、あの二人の事…えっと、好きなんでしょ?加持さんの事が」
 視線を合わせづらくて、横を向いたままもごもごと言ったら、アスカはそんな事、と笑い飛ばした。
「やぁだ、アンタそんな事気にしてたのぉ!?」
「そ、そんな事って…!僕はただ…」
 む、として言い返そうとアスカを見たら、声とは裏腹に今にも泣きそうに瞳を揺らした少女がいた。
「あ…」
 アスカ、と呼ぼうとする声を掻き消しながらアスカが笑う。
「ミサトと居る事が、加持さんの幸せなら仕方ないじゃない。それを子供みたいな我侭で邪魔する気なんて無いわよ」
 何で笑ってるんだろう。そう思わずには居られないくらい、瞳は弱々しく揺らいでいるのに。
 アスカは、強い。僕なんかと違って、ずっと、ずっと、強い。
 ――だって、笑えるんだ。
 思わず、手を伸ばして抱き締めた。
「ちょ、ちょっと、シンジ!?」
 シンジの腕に包まれたアスカが驚きを受けた本能のままに、もがく。
「甘えて良いんだよ、アスカ。辛い時は、誰かにさ」
 ピタリともがいていた体が大人しくなる。代わりに、ふるふると小さく震え始める。
 耳まで真っ赤にしながら小さくくぐもった声が聞こえる。
「…シンジのくせに」
「な、何だよそれぇ!」
 思わず叫んで腕を放してしまう。腕が離れた一瞬、隙間に覗いた寂しそうな瞳は気のせいだろうか。
「そのまんまよ!はんっ、シンジのくせに偉そうに!慰めてでもいるつもりぃ?」
「わ、悪いのかよっ!?」
 そんなシンジをアスカは両手のひらを仰向けながらはんっ、と態度尊大に切り捨てる。
「残念ながら、バカシンジに慰めて貰う程落ちぶれちゃいないわよ!ご馳走様!」
 がたん、と椅子から立ち上がり皿を流し台に漬けてから自室へと去ってしまう。
 一人取り残された部屋でぽつりと呟く。
「…アスカの意地っ張り」
「何か言ったぁ!?」
 部屋の向こうから不機嫌極まりない怒声が聞こえる。
「別にっ!」
「…もう知らない!寝る!襲わないでよね!」
「誰が!」
 ぼす、と倒れこむ音が聞こえた。本当に今日はこのまま寝るつもりらしい。
「辛いなら辛いって、だた一言言えば良いのに…」
 それだけでも、気持ちはきっと大分楽になるのに。でもそれが出来ない性格を持ち合わせてしまって居るのだから仕方が無いのか。
 はぁぁ、とシンジはお馴染みになりつつある苦難の色に満ちた溜め息を吐く。

「ただいま〜えへへ、シンちゃん起きてるぅ?」
「おいおい、葛城、しっかりしろよ」
 夜中になって玄関方面から聞こえてきた物音と二つの声に、シンジは慌てて駆けた。
「ミサトさん、酔っ払ってるの?しっかりしてよ、もう…アスカ寝てるから起こさないでよ?」
 ふらつくミサトを支えながらリビングの椅子に腰掛けさせる。
 だらしの無い格好でふにゃふにゃと机にもたれ掛っているミサトを尻目に、シンジは苦笑顔で加持を見た。
「えっと…デートだったんですか?」
 こんな事聞いてどうするんだろう、そう思うのに勝手に口が言葉を紡いでいた。
 その問いに何の疑問も持たないまま加持がにこにこと愛想良く応える。
「まあね…仕事がひと段落したんで、ちょっと」
 何故だか、その笑顔に少し嫌な気持ちを覚えた。
 でもその気持ちが何なのか分からないので心の隅に置いたまま、シンジは鍋に火を掛けながら聞く。
「加持さん、お腹空いてます?良かったら、夕飯のカルボナーラ残ってるんですけど」
「あ、本当に?嬉しいなぁ。酒しか飲んで無くてさ、かなり腹減ってんだ」
 「だと思いました」などと軽口を叩きながら皿に本当はミサトの分だったカルボナーラを盛り付ける。
 どうぞ、と加持の前に皿を差し出してからちらりとミサトを見ると、幸せそうに寝息を立てている。何だかまた言い表し様の無い嫌な気持ちに駆られて首を傾げる。
(…何なんだろう)
 とりあえず、ミサトを部屋に運んで寝かせてから、加持の向かい側の椅子に腰掛けた。
「加持さん」
「ん?」
「今日、泊まっていきますよね?終電無いし…」
 時計を確認しながら問うと、当たり前の様に、
「ああ。葛城の部屋で寝るわ。ごっそさん」
 と言って皿を流し台に漬け流れ作業の様にミサトの部屋へと姿を消してしまった。
 シンジは心の内で静かに、このカップルやだな…、そう思った。何故だか、そう思ってしまった。

「ぎゃー!ちょっと、シンジ!」
 ぱぁん、とドアが勢い良く開け放たれる。シンジはビク、と体を震わせ手に握っていた包丁をそっとまな板の上に置く。
「何だよ、アスカ。大声出して…って、わ、何て格好してんのさ!」
 振り向いたそこには、青少年が凝視するには忍びない程視覚的に何とも刺激を与える姿をしたアスカが立っている。
 慌てて俯き、顔が熱くなるのを感じながら頭の中に浮かび上がってくるアスカの肢体を必死に掻き消す。
「格好ぅ?この位で、おこちゃまねぇ。…ってそんな事より!何で加持さんが居るのよ〜っ!ミサトの部屋に!!」
 シンジはあぁ、と言う風体で手をぽん、と合わせ叩き苦笑する。
「昨日ミサトさん達帰って来た時には終電無くって。それにミサトさん、かなり酔ってたし…」
「…ふーん」
 ちらり、と二人が一緒に寝ているであろうミサトの部屋をちらりと眺めてからアスカはぐっと少し唇を噛んだ。
 「…私、朝はパン派よ?」とだけ言ってもう一度自分の部屋へと引き下がる。
「アスカ…?」
 別にアスカのパンはパンで別に用意してある…と、問題はそんな事ではない。
(どうしたんだろう…やっぱり、やり切れないのかな)
 でも確かに自分の好きな人がすぐそこでイチャイチャと一晩を過ごしていたかと思うと何ともやり切れない。
(加持さんってアスカの気持ち知ってるんだよね…だとしたら)
 かなり無神経だ、と。何故かそこはかとなく苛立ちを覚えるシンジである。
 気を取り直して刻み物を再開しつつも、部屋に引き下がったままのアスカが気になる。
(アスカ、大丈夫かな…?)
 けれどそんな心配も知らぬアスカはいつもと変わらぬ様相で部屋から出て来た。
 着替えたり髪の毛を整えたりしていた様で、髪の毛はお馴染みの髪型にきちんとセットされ、体には卵色のワンピースを纏っている。
「あーあぁ、今日は学校も休みでNERVも休みかぁ。暇ねー…シンジぃ、どっか行きましょうよ」
 唐突な誘い出につい即答出来ずに居ると、折りたたむ様にアスカの不機嫌な声音がやって来る。
「何よ、私と出かけられるって言うのに何か不満でもある訳?」
「別にそんな事言ってないだろ!どこ行くのさ」
 トーストと一緒に盛り付ける為の目玉焼きをフライパン片手に作りながら、刻んだ野菜を皿の上に少し乗せる。
 そこに目玉焼きとトーストを乗せ、アスカの前へと運ぶ。
「いただきまーす。…うーんそうねぇ、水族館か遊園地!」
 トーストにたっぷりとマーマレードを塗りながらアスカが思案顔で候補を二つ挙げる。
 シンジはそれを聞きながら、どうせなら水族館かな…と思いを馳せる。遊園地は絶叫系があまり得意では無いのでどちらかと言うと遠慮したい。
「じゃあ、水族館行く?」
「本当にっ?じゃあすぐ行きましょ!」
 急いでパンを頬張りながらそう言う。
 何をそんなに急ぐ事が有るのだろう、と不思議に思って居ると巡る思考回路が一つの可能性に辿り着いた。
(――もしかしてアスカ、ここに居て加持さんやミサトさんと顔合わせるのが嫌なのかな)
 一度そう考えると自分のその考えは至極まっとうなものに思えて来るから不思議だ。
「うん…着替えてくるよ」
「早くしてね!」
 最後に牛乳をくいっと飲み干しながらシンジを急かせる。
 言われた通り最低限の荷物をまとめてすぐにアスカの元へ戻る。
「良いよ」
「じゃ、行きましょうか」
「うん…あ、ちょっと先行ってて」
 と、傍にあった白い紙にペンで出かける旨を伝える文を記して机の上に置いておく。
 もう先に玄関を出て行ったらしいアスカの後を追い掛ける。
「ちょっと待ってよ」
 アスカの背中に声を掛けたらスカートの裾をふわりと揺らしながらアスカの笑顔がシンジに向けられた。
「あんたがもたもたしてるからでしょー」
 ふふふ、と意地悪そうに、だけど可愛らしく笑う。何だかんだ言って、純粋に水族館が楽しみでもあるのだ、きっと。
 そう言う所はやはりまだ十四歳の女の子だなと思う。

 家を出て一時間と言う少し離れた場所にある水族館。着くや否や駆け出したアスカにシンジは苦笑する。
「ほら、シンジ、早く早く!」
 入場券を販売している売り場の前で嬉しそうに笑う。その笑顔が眩しくてつい手を顔の前に翳したのか、それともただ単にアスカの後ろに映えた太陽が明る過ぎたのか。
 ただ、綺麗だ、と。そう思った。
 入場券を二枚購入して水族館の中へと入る。入ってすぐのロビーに立て掛けられたボードに目を留めたアスカが嬉しそうに振り返る。
「ちょっとシンジ!イルカショーですって!」
 水族館でイルカショー。今時となっては有って当たり前のものである。
 それなのにこんなにも物珍しそうな瞳で嬉しそうに笑うアスカは、もしかしたら水族館と言う場所に来るのは今日が初めてなのかも知れない。
「…うん、イルカショーだね」
 にっこりと笑う。でもどうもそのシンジの態度がアスカの癇に障ったらしく、怒られた。
「何よその反応!もうちょっと嬉しがりなさいよね」
「そ、そんな事言われても」
 …僕的には珍しく無い訳で。
 でもそんな事を言ったならば益々もってアスカの機嫌が悪くなる事をシンジは熟知している。
「何よ!」
「ううん…ごめん。あ、ほら、十一時四十五分からだって。行こう?」
 慌てながら自分の腕にハマった時計を確認して「そうね」と踵を返す。
 何だかそんなアスカを見てると胸がふわっとした。

「ほら、シンジ、写真写真!」
 イルカショーを楽しみにしてると言う事がシンジに分かるのをついさっきまで気にしていたくせに、もうこんな状態である。
 20分程のショーを見た後の撮影会。勿論持参のカメラを握り締めて駆け寄ったアスカである。
 その撮影役に任じられたシンジは笑いを噛み殺しながらパシャパシャとどこか心地よいシャッター音を切る。
 ある程度撮った所でカメラを顔の前から下ろし、嬉しそうにイルカと戯れるアスカに声を掛ける。
「はい。結構たくさん撮ったよ。他の人も並んでるし、いこ?」
「そーね」
 イルカに優しく口付けをして立ち上がる。その瞬間をこそカメラに収めたかったな、とシンジは思った。